とりあえずゲームに必要なのは
「綺麗だ」とか「楽しい」とかいうじゃなく
まず「遊べる」かどうかだと思うのですよ。



何が言いたいのか知りたい方は、
とりあえず下の「製作者のスタンス」の例からの
わりと長い説明をご覧ください。

・プレイヤーの反応を気にしないで作る
これは自分の目指すゲームの形を追求するために
習作を作っていく心意気としてはいいと思う例ですが、

・客商売じゃないので
 技術の向上のためにプレイヤーを切り捨てる

一方、これは上の概念をちょっと言い換えたようにも
上の概念を突き詰めたようにも見えますが
ちょっとだけニュアンスが違います。

技術を高めるために習作ゲームを作る
→客が遊べるかどうかは気にしないで色々盛り込む
→どんなクレームがあっても気にしない 無視。
→ボリュームのある作品を作っていろいろ学ぶ。
→ゲーム制作技術のレベルが上がる。

という感じで
「遊べない」ただの見世物を作ることで
「遊べる」ゲームを作る技術を上げようという考えです。

これは、何度も一人で練習してオナニーがうまくなっても
パートナーを満足させられる様にはならないように

…もとい、何度も絵筆を使って油絵を描いたところで
必ずしも墨と毛筆でうまい字を書けるようになるわけではないように。
自分の中では根本的に別問題だと思っています。

(因みにここで言っている「遊べる」ゲームというのは
 ルールや概念を理解して遊び通せるゲームの事です。)



いくら難解なシステムなどを組み込んで
大量の遊び要素を複雑に絡ませて
すばらしい画像素材や音楽素材で派手にして

肝心である部分のプレイヤーが"遊べる"要素が無いモノを
いくら作ったところで



ゲームに盛り込んだそれぞれのシステムやらなんやらを
プレイヤーにうまく伝える技術は育たないと思うんだ。

そして遊べる時点までプレイヤーにプレイを続けさせるほどの
ユーザビリティを上げる技術は育たないと思うんだ。

そしてそれをプレイヤーに面白いと思わせるような
そんなゲームを作る技術はけっして育たないと思うんだ。

そんなわけでコレはある意味ゲームではなく、
プギャ━━━━━━m9(^Д^)━━━━━━ !!!!!!
と言われるモノを作るための
"見世物"を作るための段階のようにも思えるんだ。

以上、自論展開終わり。



別にあのゲームの事じゃないよ。

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